2016-10-23 (Sun) [長年日記]

_ 怒るということ

先日思いついたんだけど、怒るっていうのは甘えだと思う。だって何らかの欲求があるとき、正解は「努力」のはず。他人に何かをしてほしいという欲求でも、自分の責任として「依頼」などができる。依頼すらしないで、「私は怒ってます(わかるよね)」みたいに責任をとらないのは甘え。

これまで、職場のコピー機の前で「あれ~これどうやるんだろう~わからないなああああああ」と大声を出す人を見て無視したい気持ちになったことがあり、自分は不親切な人間だと思っていた。しかし、買い物途中にスーパーで、見知らぬオバサンにコピー機の操作をやってほしいと頼まれたときには何とも思わなかった。俺は不親切だったのではないか? と不思議に思い、その理由を考えていた。

その時はきれいにコピーできたから、どっちの人も感謝してくれた。でも、もし失敗していたら? そうしたら、前者は、頼まれてもいないのに手を出して失敗した私が全面的に悪い。後者なら、頼んだ人と引き受けた私の共同責任になるだろう。ぜんぜん違う結果だ。

無意識に責任回避しているのだろう。会話を始めるとき「スーッ」て歯に吸気を当てる人がいる。自分から「ねえ」「聞いて」と言ってしまえば、会話を始めた当人としての責任が生じるけど、「(スーッ) あの件どうなったんだっけな」なら独り言っぽいので、責任をとらなくて済む。

そういう人たちにイラッとする私の気持ちも甘えだ。やめてほしいなら、自分の責任において努力(やめるように頼むとか、言わせない環境をつくるとか)をするべきだし、それをせずにイライラするのは非生産的で無意味。何ができるかを考えておくと良い。

コピーなら、簡単にできそうなことだけ「俺って親切だな~」と思いながらやればいいし、失敗しそうなことなら「これは俺の責任じゃない」と納得して他の人に譲ればいい。イライラする要素なんて存在しない。

スーッて言う人に対しても、「よーし俺の親切さを見せるチャンスだ」と思って気分よく相手をするか、それができないときはスーッて聞こえた瞬間にどこかへ行けばいい。俺の責任じゃないんだから。

レジ待ちでイライラしている若者を見かけたら、「この子は舌打ちや貧乏ゆすりによって、自分の責任外で、つまり誰かの厚意によって自分の欲求が満たされることを期待している、つまり甘えてるんだ。かわいいなあ~」と思って親切にしてあげようと思う。

ただしイケメンに限る。


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