2007-02-11 (Sun) [長年日記]

_ Google news 誤植みっけ

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うーぬ、なかなか興味深い。

_ 偶然とは何か - 雑感

偶然の反対が運命なのだとすると、この両者は現代と中世の世界観そのものである。

かつては教会が「すべて運命づけられている」と教えていた。 現代科学は「すべて偶然です」と教える。

神が意図して造り始動させた宇宙という「作品」は、 今や何の理由もなく存在し始めた不条理な「出来事」になったようだ。

しかし本当にすべてが偶然なのだろうか。

実はそうでもない。実際の世界はもっと複雑で、 単なる偶然よりもさらに予測のつかないシロモノだ、というのが 本書の洞察である。

よって、わかりやすい結論に一直線で突き進むことなどできるわけもなく、 話はいろいろな方向へ拡散する。 偶然は、やっとつかまえたかと思うとすぐに手をすり抜けていってしまうのだ。 これを作者は「偶然……の多面的な豊かさ」と呼び、 その豊かさを描くためにわざと、理路整然とした書き方を避けたと言う。(はじめに)

概観

完全にランダムな数列は、「一様分布」および「独立性」という特徴を持つ。 これは数学的規則から作り出すことのできない厄介な数列だが、 統計的に見れば決定論が成り立つので、実は扱いやすい。

よって、世界を数列で表したとき完全にランダムであれば統計学、 そうでなければ数学によって、完全に決定論的な世界観が築けることになるはずだ、 と、読者は考えるだろう。

この楽観的予想には幾つもの甘い前提が含まれている。 本書を読み進むにつれ、何度もその落とし穴にはまることになる。

たとえばここにはプラトンのイデア論が隠れているが、私たちが実際に扱うことの できる数学はそれほど唯一絶対のものではない。かなり恣意的なものであり、 偶然を支配するというよりむしろ、偶然に支配されている。

そして数学自体が偶然(のように見えるもの)を作り出すに至って、 偶然とは相対的なものに過ぎないとさえ思えてくるのだ。(4章)

意味

本書は、種々の引用や実例によって広範な示唆を与えている。 たとえば北欧神話の魔術「セイズ」を引き合いに、こう書く。

セイズが他の術に追われ,占星術が天体力学に追い出されたように, 決定論は時がたつと別の決定論と入れ替わる。それでも, わたしたちが生きている物質的宇宙と,わたしたちがつくりだす 宇宙像を結ぶ,あの不思議な対応関係はつねに保たれているのである。(p.109)

ここにあるのは、 ただひたすら世界の真理を追求する狭量な科学者の態度ではなく、 人間の営みや本質に対する詩人の情感だ。

訳者が「全編に漂う淡い憂愁」と呼ぶ、この「湿り気を含んだ叙情性」 こそ本書の特色である。(訳者あとがき)

本書の結論を表面だけ見ると、「絶対的に偶然な出来事などない」 「先のことはわからない」といった「ないない尽くし」なのだが、 この叙情性のおかげで「世界には意味がある」「ドライで果てしない 科学ではなく、美に基づく科学に発展を期待する」といった 本当のメッセージが浮き出てくる。

比較

エントロピー、量子力学、カオス、統計を扱った興味深い本は 無数にあるが、ここまで世界観を掘り下げて考察したものは少ない。

多くは「物理法則の根底に確率論があるので世の中は面白い」という程度で、 アイデンティティや科学の意義を考えるのは哲学者に任せておこうという、 腰の引けた態度が見える。

しかし(よく知らないが)、一流の科学者ともなれば、 意味もなく研究したりしないのではないか。

世界を解き明かそうとする彼らの背景には、きっと本書で示されたような 感情と歴史がある。そして明日も世界は彼らの上をゆき、決して正体を 現さないだろう。……そんなことを考えさせるほど、しみじみ良い本だった。

そう、きっと神はサイコロを振らない。もっとすごい……超サイコロを振るのだろう。 その美しさの、ほんの一面を垣間見たような気がした。

偶然とは何か - Ivar Ekeland (原著), 南條郁子 (翻訳) 偶然とは何か - Ivar Ekeland (原著), 南條郁子 (翻訳)

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